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vol.134 

文字の様相 ––流れゆく時代、生まれくる言葉––

グウナカヤマ・日野公彦による表現

Goo Nakayama, Kimihiko Hino

2021. 7.17(土) - 8.1(日)

止まぬ時代の流れの中で、文明は栄枯盛衰を繰り返し、人の営みも紡がれては解かれてきた。もし、今という瞬間をきりとって、未来から眺めたならばどのような様相であるのだろうか。その時に映る景色、時代の中の人間の営みのようなものは如何様であろうか。

 

きっとそこには言葉というカタチが記号のように遺されているのかもしれない。ロゼッタストーンしかり、ヒエログリフしかり、何用かの意味を綴りながらも、それらは謎めいたキーワードのように刻まれながらそれに劣らぬの魅力を放っている。
 

時代時代のメディアの最先端でもあった文字は同時に言葉という多くのイメージを喚起する芸術としての系譜も持つ。その中に中国を起源とする「書」という分野がある。今回は、時の最先端に立つ我々の前に繰り広げられる現代書の二人のアーティストたちの文字の様相をご紹介したい。

 

日野公彦(1975ー)の作品は、日野自身が暮らす東京、都会を舞台に展開される。風景の中に残像のように浮かび上がるサイン看板や現代社会の中に氾濫するある種、暴力的ですらある言葉の渦から切り取られた「文字」が作品の中心にある。ユーモアとシニカルさを併せ持ちながらアーティストの鋭敏な感性によって脳裏に焼き付いて離れなかった溢れる言語たち。丁寧に選ばれ、絶妙なまでに余白を掻きとりながら書き記された、「スペシャルセール」「Uber Eats」など、現代人には当たり前のように馴染み深いが、はてさて、数十年後、あるいは数百年後の未来の世界には存在するのかどうかは誰も分からぬ刹那的な現代の言葉でもある。日野の漫画や走り書きのような硬筆な筆致には今を生きる我々の思考を斜めに走り去るような軽やかさと危うささえをも感じる。それらが完璧に計算された線の集積であるとしたら、、、と空恐ろしいほどの面白さを感じてしまう。

 

グウナカヤマ(1975ー)は長崎の壱岐という離島で生まれ育ち制作する。甲骨文字にヒントを得て、一文字で表現していたのは「花」や「鳥」「月」など自然豊かな作家をとりまく環境が作品の主題となってきた。近年、制作を続ける中で作家の心の中に生まれるカタチのない感情、意識、ある種「ボヤキ」ともいえるような呟きが独自の記号的文字となって現れてくるようになる。今回の作品群は昨年より制作を始めた「dirt(ダート= ほこり, 泥, 汚物, 塵, 垢)」。

「自分自身は泥のようにあがき這いずり回るしかしようがない存在であると感じた。」というグウは、文字が立体物となり街中を徘徊するという、文字と自らが一体となるアクションを、同じく九州在住の書家であるハシグチリンタロウの協力のもと記録映像としても展開した。空間を大胆に横断するビビッドな赤や水色で書き記された独自で自由な文字というカタチは、ウラハラでエネルギッシュなイメージを放っている。このアーティストが書くという行為によって次のステージへと進化し続けていることを裏付けているようで興味深い。

 

このように、個人、あるいは時代全体の思考のアーカイブとも言える「現代書」の実験的表現は今、従来の言葉、あるいは文字の領域を横断して新しい領域となりつつある。また個人の思考の集積こそがこの得体のしれない時代といういもののウェーブそのものであるからこそ、彼らの表現はあながち見落とせない。目を離せない芸術活動であり、抜群のセンスと可能性をもつアーティストたちであることは間違いない。

 

Gallery NAO MASAKI  正木なお

グウ ナカヤマ Goo Nakayama

 

1975年、長崎県壱岐島に生まれ育つ。小学2年から中学卒業まで書道教室に通うが、大人になって書家・井上有一の自由でダイナミックな表現に感銘を受け、墨と紙を使った自分なりの自由な表現方法を模索し始める。1年以上を費やし、象形文字的な形態を持つ「鳥」をモチーフにした作品を1000点以上制作。漢字の起こりである甲骨文字や文字学について独学で学びながら、自然豊かな環境に触発された題材「月」「花」などを中心に制作するが、近年、自分自身の根底から生まれるカタチのない存在、感情、「無」「AlLIVE」「ENVY」などを主題に新たな文字表現へと踏み出している。

日野公彦 Kimihiko Hino

1975年北海道生まれ。東京在住。二松学舎大学文学部国文学科卒。生まれつき喘息が酷く小学校も毎年半分近く通えなかったため、家にあった白戸三平の漫画や、昼ドラ、銀河鉄道999等、アニメを観て過ごす。1994年、国文学科に入学し、偶然入った書道部で井上有一のコンテ書「コンテもをわり」を目の当たりにし、硬筆で言葉が書かれただけの紙から目を離すことができなくなった事実に衝撃を受け、書の制作を始める。自己というフィルターを通して身の回りで目につく言葉を選び、その周囲の存在を切り取る行為で時代性を捉えた作品を制作する。

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